no title


1: :2015/01/04(日) 00:16:35.04 ID:
 「七十年前の一九四五年は、海軍の千歳基地(北海道)で、特攻要員として訓練に明け暮れていた。元日だけは訓練が休みになったけど、 正月の祝いとかはなかったな」 

 穏やかな午後の日差しに包まれた逗子市の自宅で、信太正道さん(88)は戦争に奪われた十代の正月を振り返った。 

 四五年七月、特攻出撃の指名を受けた。特攻は軍事機密。外部に漏らすことはできない。家族へ出す手紙さえ検閲されていたが、偶然にもその日、故郷の横浜から両親が面会に来て、別れを告げることができた。同僚はうらやましがった。特攻に出ることを両親に伝えることができたからだ。「特攻は天から与えられた任務と思っていたが、終戦間近で、もう出撃する機体は残っていなくて」 

 終戦からほぼ一カ月後、着の身着のまま横浜の自宅に戻り、おそるおそる家の中をのぞいた。「生きている、生きている」。母が素足のまま飛び出して来た。終戦の混乱で連絡を取るすべはなく、特攻に出たものと思われていた。信太さんは十九歳だった。 

 その五年後、今度は海上保安庁職員として朝鮮戦争に掃海部隊で参戦することになるとは-。 

 当時、日本の掃海技術は世界一と言われていた。米国の要請で、日本政府は延べ千二百人の日本特別掃海隊を韓国南岸に派遣した。 

 信太さんは上司から「日本の講和条約を有利にするため」などと言われ、参加を決めた。乗ったのは「戦後の特攻」とも呼ばれた試航船。 
掃海を終えて機雷が残っていないか確認するため、試航船として普通の貨物船を運航した。機雷が残っていれば、ドカン。船上で恐怖の時間を二カ月間過ごした。「日本は朝鮮戦争に参戦していないことになっていた。実際は、日本の掃海艇一隻が触雷し、十八人が負傷、一人が死亡した」。亡くなったその一人は七九年、戦没者叙勲・勲八等白色桐葉章が贈られ、戦死と認められた。 

 韓国南岸の掃海から東京に戻る途中、広島に立ち寄った。原爆ドームの前で、被爆者の男性がただれた肌を見せながら、原爆の悲惨さを訴えていた。皆が泣いて聞いていた。「自分のような職業軍人が生き残り、庶民がひどい目に遭って死ぬなんて。まったく申し訳ない」。ショックを受けた。「自分は神風(特攻)だとうぬぼれていたが、運が良かったにすぎない」 

 日本航空を六十歳で定年。当時、逗子市では米軍住宅の建設問題で、賛成か反対か、市を二分する争いになっていた。ある日、反対派が訪ねてきた。それをきっかけに、平和活動に身を投じた。二〇〇〇年に「戦争屋にだまされない 厭戦(えんせん)庶民の会」を組織し、年二回の会報を出している。 

 「日本は平和です。少なくとも殺し合うような状態はありません。その前の時代を生きた者として、体験を語り続けることが私の天から与えられた任務なのです」 (草間俊介) 

<略歴> しだ・まさみち 1926年生まれ。神奈川一中から海軍兵学校へ。戦後、京都大卒業。50年海上保安庁に入り韓国沿岸の掃海にも参加。海上警備隊を経て、航空自衛隊のパイロットに。58年日本航空に入社、63~86年機長。「戦争屋にだまされない 厭戦庶民の会」の代表。 

ソース(東京新聞) http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20150103/CK2015010302000111.html 
この記事の続きを読む